JOURNAL

ENと禅 美しき日々をならう #02 当たり前と向き合う

一筆走らせた刹那、空虚な窓がやさしく霞む。
まぶたの裏に満ちてゆくのは、心ほどく香りの束。
 
始まりも終わりもない。いま、ここに在る自分。
身の内に泡立つ波は、洗い流してしまえばいい。

一服に時を委ね、懐かしい深淵に辿り着く。

美しい味との邂逅。
そしてふたたび、呼吸を思い出す。


禅の思想を学びながら、豊かな日々を紡ぐ新習慣を紐解いていく本連載。教えてくださるのは、普門寺住職の吉村昇洋さんです。第1回「整える習慣」に続き、今回のテーマは「当たり前と向き合う」。精進料理の講師も務める昇洋さんのお話から、私たちが普段「当たり前」とみなしている食への向き合い方を見直します。



#02 当たり前と向き合う



「野菜料理は全て精進料理かと言うと、そうとも言えません」

KEY WORD
DEFINITION / REVERENCE / AWARENESS / PURITYL



DEFINITION
精進料理の定義とは何ですか?
 

「肉・魚などの動物由来の食材と、ニンニクやネギなどの五葷(ごくん)と呼ばれる香りの強い野菜は使用しない」ことが一応の定義です。しかしながら、これはあくまで精進料理の外枠の概念。これらの食材を使用しない野菜料理は全て精進料理かと言うと、そうとも言えません。日本で精進料理の礎を築いた道元禅師は、食事をいただく際の指南を『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』という書物に記しました。その冒頭には「食事作法と仏法は一体である」と書かれています。すなわち「食べることは仏道修行」ということですね。

例えば禅の修行道場では、以下の5つを食事の心構えとしています。

・1つ、自分のもとに運ばれてくるまでに、食べ物がさまざまな人の手を経てきた経緯を想像し理解しましょう。
・2つ、そのようなありがたい食べ物を受ける資格があるか、自分の行いを振り返りましょう。
・3つ、「他の人よりも多く食べたい」などの貪り・怒り・愚かさを払いのけ、心の汚れを清めましょう。
・4つ、人は食べなければ生きていけません。自己を支えてくれる良薬と位置づけていただきましょう。
・5つ、仏と同じ悟りの在り方を実践し、仏道の糧にしていくことを誓って、ありがたくいただきましょう。

この飽食の時代、お金を出せば「当たり前」に食べ物が手に入りますよね。すると、食べ物は命を繋ぐものだというかけがえのない「当たり前」にも意識がいかなくなってしまう。食べても良い食材のルールだけでなく、禅思想の実践として食べることも、精進料理の定義の1つ。そう考えると、単なる野菜料理との違いが見えてくるのではないでしょうか。



REVERENCE
精進料理を作る際、どんなことを心がけていますか?
 
道元禅師は食事をいただく際の指南だけでなく、作る際の指南書として『典座教訓(てんぞきょうくん)』を残しました。そこには「三徳六味」という精進料理の定義が記されています。この「三徳」とは「軽軟(きょうなん)=硬い食材も食べやすく調理する」「浄潔(じょうけつ)=食材や器の衛生管理をする」「如法作(にょほうさ)=食材を余すことなく使うなど、仏法に則って調理する」を意味します。生産者の苦労を思い、食材に感謝しながら、清潔に、丁寧に、美味しく作る。「三徳」自体は決して目新しいことではありませんが、そんな「当たり前」は普通意識されないので、改めて心に刻むことが大切なのです。
 


AWARENESS
精進料理を通して何に気づかされますか?
 

禅の基本は過去でも未来でもなく「今この瞬間」。そして、食べて何を感じるかは本当に人それぞれです。だからこそ、今この瞬間の自分を見つめ、その後生じる気づきを大切にしてほしいと思います。

禅の食事作法は非常に細かく定められています。私自身、修行を始めた頃はなぜこのようなことをするのか不思議で仕方ありませんでした。なぜなら、作法の型は教わるけれども、その意味までは教わらないからです。作法は絶対に間違えてはいけませんので、すさまじい緊張感の中で食事をします。しかし数ヶ月も経つとなんとか身体化して、何も考えずとも体が動くようになりました。そこまできてようやく、「ああ、これは単なる食事作法なんかじゃなくて、禅の修行になっていたのだな」と腑に落ちたわけです。器と箸は必ず両手で扱う。食べ物を口に入れている間、箸は汁椀の上に箸先を手前に向けるように置く。こうした作法に則っていると、その都度1つのものしか食べられないことに気づきます。そして自ずと、使われている食材や繊細な味に思いを馳せるようになるのです。目の前のことに一対一で丁寧に向き合う。まさに禅の思想です。

仏道修行として生まれた禅の食事作法は、おそらく時の流れとともに形骸化したのでしょう。これは視点を変えればとてもありがたいこと。おかげで、現代の修行僧は己で意味を見出す機会を得ます。また型に意味が残っていたならば、かえって余計なものが付け足され、今頃は本質から外れてしまっていたかもしれません。精進料理を食べるという体験を通して、今この瞬間の自分を見つめる。そして得た気づきを日常生活で実践していただければ、日々はより豊かになると思います。

 

PURITY
大切なものを「当たり前」として見失わないための心持ちとは?
 
先日、3歳の息子が窓の外を見て「わあ、きれいなゆうひ!ママにもみせてあげたい!」と言ったんです。私からしたら何でもない夕陽で、特別美しいわけでもない。でも彼にとっては毎日が新鮮で、「当たり前」なんてものは存在しないんですよね。仏教において重要なのは、物事を正しく観ることです。幼い息子の目に映った夕陽のように、いかに自分のフィルターを手放してありのままを受け取れるか。今この瞬間を感動できるピュアな視点こそが、私たち大人に求められていることなのです。




PROFILE
吉村昇洋(よしむら しょうよう)
1977年広島県生まれ。曹洞宗八屋山普門寺の住職。公認心理師、臨床心理士として精神病院や大学の学生相談室のカウンセラーも務める。駒澤大学大学院で仏教学を、広島国際大学大学院で臨床心理を学び、曹洞宗大本山永平寺の修行を経て現職に。著書に『心とくらしが整う禅の教え』(オレンジページ)、『精進料理考』(春秋社)などがあり、禅仏教の教えや精進料理を伝えている。
http://www.zen-fumonji.com/
 


慣れない所作が自分に馴染むと、今この瞬間の在り方が見えてくる。目の前の食と丁寧に向き合いながら、小さな幸せに気づける心を持ちたいと思いました。昇洋さんは自坊で教室を開き、食を通じた禅の実践を提供しています。そこで味わえるのは、和食の枠に縛られない精進料理。昇洋さんの物事との向き合い方は、「当たり前」の概念に囚われず、新しい可能性を探求するEN TEAの茶づくりに重なるものを感じます。


EN TEAの向き合う茶

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